2017年1月22日日曜日

「熱」

「自分が関わった仕事が、世間でどのような評価を得ているか。」
それを気にしない仕事人は居ません。

49話を作ったスタッフさんたちの殆どは、まほプリの評判を知っているでしょう。(※注)

それでもここまでソウルフルな音と映像を作って見せてきたという事実は、
どう解釈すべきだろうと考えてみました。




少なくとも確実にいえることは、

作品を投げなかった。
あきらめなかった。
「よい終わり方をしたい」という熱意があった。
監督に力を貸そうとする意思があった。

というところだと思います。



※世間的評判とは当然、ウチが基準ではありません。
「世間」を語るならウチよりもこれの方がよほどアテになるでしょう。


2年前より随分マシ。
ただ、去年の評価があまりにも高すぎるので
比べてしまうとかなり残念というのが、
これを見る限りでの冷静な見立てかなと。

ただしこれは評価の割合だけでなく
評価している人数にも着目すべきです。
今年はレビュアーが少なすぎます。

語ろうとする人が少ないというのは
悪い評価とはまた別の意味で
深刻な事だと思います。

※  ※  ※

私は1話の頃から変わらず、この49話を見てさえ、
三塚さんがこの作品を通して何を伝えたいのか
キャラクターを通じて何を描きたいのかは読み取れませんでした。

それは、本来作品を作るうえでは絶対に欠かせない軸のようなものなのですが、
それを持たずに作ろうとしてしまったんだろうなと受け取るほかありません。

自発的ではなく、誰かに言われたとおりの仕事をしようとする意志を
感じたのもそういうところに理由があると思います。


しかしそれでも、役者さんと絵描きさんほかスタッフさんを使って
この気迫あふれる映像を作ったのは、
三塚さん(と大塚監督)の技量であり、情熱であるはずです。



本当に、本当に不満が山ほどあって、一度堰を切ったらとまらないほど溜まっているのですが、
それでもこの心意気にまではケチを付けたくないと思いました。

(これまでに言いたい事は大体言い切ってるという事もありますが。)




不満の言葉はまとめてあったんですが、封印しようかなと思います。
三塚さんの分は。

あとは、もう少し頭冷やしてから決めます。



※  ※  ※

神業職人たちにここまでの仕事をさせるという事は、
三塚さんの人柄は愛されているのかな・・・なんて想像してみました。

だって、自分が仕事を振られる立場だったら、
たとえお給料をもらえても嫌いな人のために全力なんか出せないですもん。

22 件のコメント:

  1. 相対性論者2017年1月22日 21:51

    両者の人となりを知らない僕がヘタなことは言えません。
    よって人望があるかどうかは分かりませんが、
    交友関係はあったそうですし、かつて同じ立場を経験した人なら
    相談に乗ったり、グチを聞いたり、「手伝うから言えよ」とか、請われたら断らないでしょう。
    あとは「視聴者(子供たち)のためなんだからね!」かもしれません。

    あるスレでみらいの中の人のツイッターの一文が紹介されていたのですが、

    (子供たちに)がんばれ!と言われたら、がんばるしかない

    旨の書き込みをしてらっしゃいます。(括弧内は僕の想像です)
    全文読むと満身創痍感が察せられて(個人的な感想です)頭が下がります。
    とうに心が折れてるだろうに、添え木だけで戦っているようで・・・(あくまで個人的感想です)

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  2. はじめまして。なんとなく辿り着いた者です。
    この記事と、49話の記事しかまだ読んでませんが。
    まほプリ、今は嫌いじゃないですが、始まった当初は「なんじゃこりゃ?」でしたね。
    そういう疑問を明文化してるサイトさんなのかな?と勝手に解釈させて頂いてます。

    絵と声優さんのがんばりだけで持ったアニメ、なんでしょうか…?
    そういう作品、前にも出会ったような気がしますが…なんだったっけかなw
    がんばったスタッフ、キャストは報われたのでしょうか…?

    正直最初の私ははーちゃん(ヨチヨチ期)だけが希望でした。
    そんなはーちゃんも大きくなって、それでもはーちゃんでいてくれてよかったなと思います。
    はーちゃんがいなかったら、見切ったプリキュアその2になってたかもしれません。
    (その1は意外にもスイートです)

    確かに積み重ね、ないですね。
    繋がってる感じ、しないですね。
    いや、みらいが友達人気ある描写はありましたけど
    なぜリコは特別なのかわからないまま既成事実みたいになりましたね…w

    とりあえず既成事実だと割り切れば49話はすごかった、と言っていいと思います。
    (実際みらいの呪文連呼のとこは泣きそうになりましたし)

    あんまり深く考察とかしたことない人なのでよくわかりませんが
    まほプリに足りなかったものとは?
    ここにいたらその答えを得られるでしょうか。
    まぁ今となってはそれ自体は(自分にとっての)重要度はさほどではないのですが
    ふとこのサイトが目に留まったので、ちょっとだけお邪魔させて頂きました。

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  3. >それでもここまでソウルフルな音と映像を作って見せてきたという事実は、
    >どう解釈すべきだろうと

     単純に考えるならば
    ○監督が人心掌握術に長けていた。またはスタッフから慕われていた
    ○スタッフにオタク気質の人が多く、世間の評判や上司に関係なく
    自分のやりたいことに情熱を注いだ

     といったところでしょうか。
    ただ単に責任感だけであの気合の入った画は作れないでしょうから、
    通常の精神状態ではなかったんじゃないかと思います。

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    1.  大事なことを忘れていました。それは本来の視聴者である、子どもの評判です。
      我われ成人に評判が悪かったとしても、子どもの評判が良ければ、
      スタッフの気合が入ったのにもうなずけます。

       私はあまり人気の有無を詳しく調べたりしないので、実際のところは分かりませんが。

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  4. このアニメに関しては最初からあの49話を目指した作りをしていましたよ

    とゆうかはっきり言ってていお氏がこの魔法つかいプリキュアと言うアニメをズレた点で観てしまい大損をしながら最後まで来てしまった感があります
    大きな理由を挙げると「このアニメの最大の特徴はみらいとリコの友情物語でありそれに注力していること」を理解できなかったこと前作のプリンセスプリキュアの印象が焼き付いて柔軟に作品を楽しむ気概が無くなっていた事の2つです
    何れにせよこのアニメ自体に指して問題は無く、楽しめなかったのは観ていたていお氏自身の問題です 全体的に無駄に上から目線で自分の好みに合う展開以外すべて否定する典型的なお子様思考ですね

    49話は今までの集大成であり「魔法つかいプリキュアはこれが描きたかったのだ」とゆうスタッフの思いがこれでもかと感じ取れる秀逸な出来ですが、ていお氏はこのアニメを楽しめた人間が観た時の感動の半分も味わってないと思います
    ポット出でこの49話が出来上がる訳ないじゃないですか そこに至るための積み上げはちゃんとあったんですよ あなたは完全に無視して前作との比較や見当違いの考察ばかりしてましたけどね
    それでロクな見識も無い状態でスタッフどころかキャストにまで妄想染みた憶測や文句垂れるあなたに呆れ果てる 

    この1年随分と勿体無いことしましたね 
    これからはまずそのアニメがどういったタイプで攻めてくるかを見極めてそれに応じた楽しみ方と分析をして見たらどうです?
    それが出来なければ好き嫌いする子どもと同じですよ 少なくともプリキュアの同人をこれからも出し続けるなら無理してでもその作品の熱くなれる部分を探さないと出来上がるのは薄っぺらいモノだけ そんな同人誰が買うのでしょうか...

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    1. >「このアニメの最大の特徴はみらいとリコの友情物語でありそれに注力していること」
      もしそうだとしたら、私も理解できなかったことになります。
      もちろん、そういった特徴を全く感じなかったわけではありません。
      でも、弁解をさせてもらうと、他の要素(魔法、二つの世界、敵など)に気を取られて、
      それが最大の特徴とまでは感じなかったんですよね。

       いっそのこと、みらいが「他の皆に嫌われても、リコ(とはーちゃん)さえいてくれればいいよ」
      というような状況になればわかりやすいのですが、子供向けでは難しいかな。


       ところで、この作品にとって避けられない特徴として、魔法・魔法つかいがありますよね。
      HNCさんはこれについてどう思われましたか?私はもっと「ハチャメチャ大混乱!」な
      話がたくさんあれば良かったなあ、と思いました。

      削除
    2. 楽しめる人には楽しめるんでしょう。HNCさんは楽しめる人だった。素直に羨ましいです。
      ていおさんを始め、今作に苦言を呈している人の多くはロジックとしての納得がいかない、という人が多いので、どうしようもないのが辛いところですが。
      ようは、気になっている細かい矛盾点などに全て目を瞑れば楽しめる、という事ですから。
      (そして気になっている人にしてみれば、目をつぶるのが非常に難しい)

      みらいとリコの友情物語、なるほどそれだけでしたら49話の再会シーンにもある程度納得行きます。
      友情というより恋人のようでしたが……恋愛物語のほうがしっくりきません?
      めめたあさんも仰っていますが、『リコさえいてくれればいいよ』、これは愛よ。

      ちなみに私は、そう(友情物語として)見ようとしても、キャラクターに一貫性があるか、キャラクターのバックホーンはどうか、如何に意見を交わし、絆を深めたか、そういった点も気にします。なので結局楽しめませんね。
      友情なんて例年のどのプリキュアでも育まれて来ましたからね。
      ノリちぐはぐ、性格真逆、だけど友情。ハートキャッチやスイート、初代も、みんなそうですね。

      ところで、クライマックスには作品のテーマ、メッセージ性を表現して欲しいと思っているのですが。
      (これは子供向けのアニメですからね)
      はて、あの再会シーンは何を伝えたかったんでしょう。見ている子供に何を考えさせたかったのでしょう。
      感動させたかった以上の意図が私には感じられません。

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    3. うーん僕は「みらいとリコの友情物語」としてあの物語を見ようと試みた事がありますが
      それでもしっかりそれらが描けていたかというと疑問を感じましたし、実際そう見ることも難しかったです。
      ですがまほプリの物語を見て「2人の友情がしっかり描かれている」と感じられた人なら
      とても満足の行く内容だったと思いますし、それを踏まえての49話はまさに今年1年の集大成になったろうと思います。
      皮肉とかでは決してないですが、そう見られたというのならそれはとても羨ましいです。

      削除
    4. 今年春のプリキュア新聞24面で鷲尾Pが
      「今後についてはまだ決まっていません。スタッフにとってはそれが楽しみだったりするんです」
      と、語っていますね。
      これを素直に受け取るなら、

      >このアニメに関しては最初からあの49話を目指した作りをしていましたよ

      「それは違う」と言うことになりますね。

      また、仮にそうであったなら「私の目には」、
      やっておくべき仕込が大分不足していたように感じた。
      「私が学んできた、ごく少ない知識とセオリーで考えたら」
      そう言わざるを得なかった。という話です。

      そして知識豊富で見識の広そうなあなたは「不足していない」と感じる事が出来た。


      その違いは否定しあっても詮無き事です。
      人の感情は意見交換で変わるものではないし、そうするべきものでもないのですから。


      また、この1年間が無駄だったなんてとんでもない話です。
      とてもとても学ぶ事が多く有意義な視聴体験でした。

      これがなければ、私が尊敬する監督さんがどれだけすごい仕事をしているのか
      に気づく事は出来なかったのですから。

      削除
  5. それって監督のやりたいことをていおさん個人が読み取れなかったというだけの話なんじゃないですか?
    別にそれ自体は作品の合う合わないがあるからかまわないと思うけど、
    周りの人間(少なくとも最終回スタッフ)は「やりたいこと」を共有できていたから良いものを作った。
    それ以上の理由を邪推するのはスタッフへの侮辱になると思います。

    普段からこのブログを読んでますがこの記事はあんまりにも行き過ぎてると思ったので。

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    1. >それ以上の理由を邪推するのはスタッフへの侮辱になると思います。

      私はこの部分に関しては、職人さんたちへの敬意を表するつもりで書きました。

      「自分だったらどう思うだろう」という考えを発表する事が、
      たとえ当人たちから見て的外れだと思う物であったとしても
      侮辱になるとは、私は、思いません。

      もっとも、今作に対してはこれまでにかなり棘のある言葉を使ってきていますから
      「どのように受け取られるか」については今後は一層慎重に表現を選ぶ事にします。

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  6. いえ、やはりひどい侮辱だと思いますよ。
    実を言えば自分もまほプリをあまり楽しめなかったクチで、言葉に棘があるとはいえていおさんの「なぜ面白いのか、つまらないのか」を言語化できる才能は尊敬しているところです。
    でも、今回の話って「もしも自分がスタッフなら(作品自体を好きではないのに)熱量を込められるモチベーションがあるのは監督を慕っているから」という推量ですよね。
    あなたは無意識かどうか知りませんけど「スタッフはまほプリという作品自体を愛していないだろう」と言ったんですよ。
    それは、作品を世に送り出すのが仕事のクリエイターに対して、少なくとも今回のように良い仕事をした職人に対して、一番言ってはいけないことです。
    私なら絶対に言われたくない。というお話です。

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    1. 誤解の原因はそこでしたか。
      しかしわかりませんね。

      >(作品自体を好きではないのに)

      その言葉は何処から出たのでしょう?

      冒頭で「評判の程は分かっているでしょう」という話はしましたが、
      そこから「スタッフの皆さんが作品をどう思っているか」
      なんて話がどうして出来ましょうか。


      それとも、「もし私がスタッフの立場だったら」という言葉を
      「ていおブログを描いている本人」がそのまま「現場スタッフになったら」と読み取ったのでしょうか?

      しかしそうだとしても、
      それが「スタッフは作品自体を好きではない」なんて理屈の前提になるはずもありませんし・・


      >無意識かどうか知りませんけど「スタッフはまほプリという作品自体を愛していないだろう」と言ったんですよ。

      これも、どの言葉でそのように解釈したのか分かりません。

      『49話を作ったスタッフさんたちの殆どは、まほプリの評判を知っているでしょう。』
      ▲これでしょうか?

      だとするなら、
      「世間の評判(去年に比べると良くない)を知ったとしても、
      それが作品への愛が無くなる理由にはなりませんよね。
      まして、2年前よりもよほど肯定的に語ってくれる人たちも居るのですから。」
      とお答えします。

      ※  ※  ※

      ともかく予想外の解釈でした。
      ・・誤解のない表現に書き換えます。と言いたい所でしたが、
      今のところどこをどう直せばよいか良く分かりません。

      思いついたら直すかもしれません。

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    2. 図体は大人、精神年齢は子供(みらい)2017年1月24日 22:15

      キャラへの愛情は無い、と言ったら言い過ぎですかね。
      でも愛情の掛け方は間違っていたと思います。作家(親)→キャラ(子)

      子供の成長を願わない、喜ばない親はいないと思います。(寂しいとは思っても)
      しかし村山氏はインタビューで「小さな変化は描いても、成長は描かない」(意訳)と公言し、
      実際にそうしています。
      49話のみらいが魔法を取り戻し、リコ+αと再会するのは、子供時代への回帰としか思えません。

      この作品のコンセプトは「手を繋ぐ」「2つの世界が繋がる」でしたが、
      実際繋がったのは、「2人の手」と「2人の世界」だけだったのではないでしょうか?



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  7. 「互いに片手を差し伸べて」
    結論から言えば49話でスタッフの皆さんの熱意が私には届きました
    今までの作品とは違った、色々なことを考えさせられました
    この作品に出合えて本当に良かったと思います

    世界を繋ぐのは一方通行でも無理やり混ぜるのでもダメ
    互いに手を差し伸べること、そして諦めないことだと思います
    色々難しい制作条件の中、スタッフが互いに手を差し伸べた結果が49話です
    表現法の問題やとっちらかったエピソード、描き切れない部分はありますが、
    最後まで諦めない気持ちと熱意は少なくとも私には届いています

    欲を言えばみらいたちの前の世代での世界を繋ぐ努力を描いていたら
    もっと離れる世界と再会に思いがこもったかもしれません
    スタッフの皆さんにはまた挑戦して欲しい題材です

    批判も肯定もひとそれぞれあっていいと思います
    互いの意見がより良い未来を作るかもしれません
    ただ、両手で抱きつけとは言いませんが、互いに片手を差し伸べることは忘れずに

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  8. まほプリは言おうとしてること一見立派ですが
    みらいたちの行動にそれが伴っていたかというと全く肯定できないのが問題の根元だと思います
    例えばですね
    みらいはリコと会えなくなったわけですがナシマホウ界の面々と別れたわけではないです
    にもかかわらず終始浮かない顔をしていてナシマホウ界の知り合いを軽視してるようにどうしても見えてしまいます
    これはなぜかというとリコとの再会を感動的にしたいという浅はかで過剰な演出的理由もあるでしょうが
    それ以前の根本的問題として、リコと別れたみらいがきちんと立ち直って生きて来れたということが全く想像できない作りになっているからです
    そこが十分に想像できるならこの演出もふとリコのことを思い出して悲しくなってしまったが普段はナシマホウ界で友達をいっぱい増やして充実した毎日を過ごしてきただろうと言い訳ができるのです
    しかし出来ません
    何故ならみらいが別れの先にある未来を想像し覚悟を決めてきた実績がこれまで一切ないからです
    それどころか直前まで「明日も一緒」としか言えなかった始末です
    そんなみらいがリコと別れた後、真っ当に人生を歩めたと想像するのは解釈を超えてただの都合のいい妄想です
    別れに直面したみらいがいかに立ち直ったか立ち直るのか、それこそドラマの中核ではないんですか?
    そこを丸々カットして都合のいい結果だけ提示するというのは卑劣極まりない最低の脚本だと思います

    ただし、これはみらいが別れから立ち直って歩んで来れたと妄想するのはおかしいという話です
    立ち直れずみらいはダメダメな人生を歩んでしまったということならみらいのイメージとピッタリ合致しますし卑劣とも思わないごく自然な流れになります
    しかしながら、そうなると別れを受け入れられないみらいの姿は極めて不順な姿になりますし
    結局別れを受け入れるのではなく魔法で再会出来たから良かったねという身も蓋もない話になってしまいます
    シビアな言い方をしますと現実には魔法なんて存在しないわけですから、魔法を別れを攻略する最重要な鍵に設定してしまうと現実の子供たちがみらいと同じように別れに直面したときに同じように倣うことが出来ません
    困ったことがあっても魔法があるから大丈夫だよ
    と子供に教え込む
    プリキュアはそういうアニメであるべきではないと私は思います

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  9. まほプリのテーマは「手を繋ぐ」「世界を繋ぐ」です。
    プロデューサーも監督もそう明言しています。
    もっと詳しく言えば「ノリチグハグ、性格真逆な2人が、その違いを尊重した上で手を繋ぐのが大事である」「それは2人の個人的な繋がりにとどまらず、2つの世界を繋ぐことにもなる」というのがテーマですよね。
    主題歌(文字通りの“テーマ”ソング)でもそう歌っていますし、ラスボスの主張に対するプリキュアの反論もそういう内容でした。
    これが描くべきテーマであることに勘違いの余地はありません。
    そしてみらいとリコの友情描写はそのテーマを描くための手段であって、目的ではありません。

    問題はそのテーマがちゃんと描けていたかです。
    個人的にはみらいとリコっていうほど性格真逆だとは思いませんし、
    互いの違いを認め合って相互理解を深めるという描写もあまりなかったと感じています。
    そもそも初対面から理由のない一目ぼれで仲良くなっていましたし、
    みらいにとってリコは最初から「仲良くしたいと思う相手」なんですよね。
    乗り越えるべき「違い」はそれほどない相手なんです。
    だから2人の友情にいくら注力しても、本作のテーマを描く助けにはなっていなかったと、個人的には感じています。

    返信削除
    返信
    1. 『テーマを描けていたか』、私もこれが、一番の問題だと思っています。
      私は、最初にこのテーマを聞いた時、ディズニーの『ズートピア』を連想しました。
      時期的な物もありますし、前作がアナ雪に対してのプリンセス、と一部でささやかれていたためでもあるのですが。

      そのズートピア、は肉食動物と草食動物の間の確執や差別問題を扱った作品です。
      その舞台となるズートピアという街は、肉食動物と草食動物が共存し、平等に暮らす街。
      その場所を夢見て赴任してきた新米警官の兎に対し狐がこんなことを言うシーンがあります。
      「草食動物と肉食動物で仲良く暮らしていると思ってたのか? 残念だけど仲は悪いんだ」
      まぁこんなことを言われるわけです。
      当たり前です。明らかに違う種族が、何も考えずに手をつなげるわけなんてないのです。

      私は、プリキュアでもこれに近い問題定義をしてくるのではと期待をしていました。
      あまり突っ込んだ内容はムリとしても、ある程度、人権問題に踏み込んでくるのではないかと。

      結果はプさんも仰っているように、このテーマは本当に軽視されました。
      みらいは何故か即仲良くなったリコと狭い世界に閉じこもり、敵や勝木さんを無視し続けました。
      リコの個性である、努力、考えてから行動する事を否定しつづけました。
      そして特に確執もない(片方がもう片方の存在すらしらない)お互いの世界の人々は、デウスマウストに消されかかり、なぜか手をつなぎました。

      しかし、これはもう仕方なかったと思います。
      なぜなら、違う世界と手をつなぐ、つまり『違う価値観を認め合う』為には、他人を見下す、差別するという負の感情が必要だからです。
      そういった負の感情を乗り越えて初めて、『手をつなぐ』事ができるのですが、今作はそういった負の側面を極力廃する作りです。これでは、テーマを描くことがそもそもできません。
      せめてプリキュアが敵組織の話を真摯に受け止め、対等の立場で戦えばまた違ったのかもしれませんが、『成長させない』『敵に個性は持たせない』というような話がまた、足を引っ張ります。
      ……もうなんというか、調理の仕方の前に調理器具が間違っていた気がします。

      ただ、せめて、他人の個性を否定するような事はしてほしくなかった。
      少なくとも、外見をけなす発言は、このテーマであるなら絶対に肯定されてはいけなかったと思います。

      削除
    2. >個人的にはみらいとリコっていうほど性格真逆だとは思いませんし、
      >互いの違いを認め合って相互理解を深めるという描写もあまりなかったと感じています。

      私も、違いや相互理解といった描写をあまり感じませんでした。
      初期からよく感じていることなんですが、まほプリには対立らしい対立というものが無いんですよね。
      全くという訳ではありませんが、それは単話での話で、性格や部活から衣装の色に、自宅までも徹底して真逆に設定された初代を思うと、あまりに対立が無いように思います。そういえば喧嘩回も無いような。
      肝心な敵もまともな対立軸になれず、戦闘が殆ど露払いにしかならなかったのもこれに拍車をかけています。
      違うもの同士が手を繋ぐ、相互理解というテーマである筈なのに、肝心な違いを設定できなかった、といった所でしょうか。実情はわかりませんが、テーマの方が後からできたのではないかとも思われるので、できなかったはテーマの方かもしれません。


      それは別として、日常に主眼を置く、ということが49話にしてやっと理解できました。
      考えてみれば、リコがみらいの家に住む、という時点でこれまでの友情描写から大きく一歩踏み込んだ関係にしているんですよね。はーちゃんの存在も踏まえると、みらいとリコは友達ではなく家族だと。(感想記事のかとさんさんのコメントが1番スッと落ち着く説明でした。) そこに大きな成長というのは、ノイズにもなりますからね。
      2人の再会を「子供時代への回帰」と捉える人もいるようですが、私はそうではないと思います。当たり前にあったものを失うこと、友人(家族)と別れることを、成長を言い訳に美化しない。繋いだ手を離したくない、離れたのならまた繋ぎたい、という当たり前の感情をキチンと描いたのではないでしょうか。そしてなにより、「手を繋ぐ」がテーマなのに手を離しっぱなしで終わっては、それこそ主題が行方不明です。

      削除
  10. まほプリは、ズートピアではなくてハリーポッターから着想を得ているのでは?と思います。
    USJのウィザーディング・ワールド・オブ・ハリーポッターが出来たのが2014年11月ですし、今作1話の最後に魔法ステーションから旅立つところは、9と3/4番ホームのパク……リスペクトでしょう。
    あんな風に「プリキュアを魔法の世界で活躍させたい」というのが今作の出発点ではないかと思われます。
    で、ナシマホウ界の女の子が異世界でいろいろな体験をする、すなわち異文化理解の体験をする→違いを認め合うという連想によって「手を繋ぐ」というテーマが生まれてきたのだと推察します。
    このテーマを体現するなら、しょうゆ様のおっしゃるように双方の意識の差や壁を認識し、それを克服するという過程が必要だと思います。
    例えば(ズートピアになぞらえるなら)
    「一見魅力的であるけれど、閉鎖的で排他的であるマホウ界で、みらいや彼女に感化されたリコが活躍することにより、皆の意識が変わり交流が広がっていく」
    といった感じですかね。
    でも、マホウ界をそうしたマイナスを持たない楽しい世界として位置付けてしまった。
    そうでなければ視聴者に受け入れてもらえない、という思いがあったのでしょうか……?
    もしくは、敵に「交流を絶たせる」「分断をそそのかす」という役割を持たせれば、マホウ界自身に悪印象を加えることなく主人公たちに試練を与え、プリキュアと敵との対立点を明確にできただろうに……

    まぁ、そもそも、あくまでも上記の構想は私の妄想に過ぎませんが^^;

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    1. エンカイ様、返信ありがとうございます。

      >一見魅力的であるけれど、閉鎖的で排他的
      これって主人公たちまんまなんですよねぇ

      確かにハリーポッターですね。終盤になってすっかり忘れてましたが、最初の頃は『まんまじゃないか』と思ってた気がします。汽車で百味ビーンズ→列車で冷凍みかん、とか細かい所まで。素晴らしいリスペクトです。

      ハリーポッターの場合もやはり、マグル差別(血統差別)がありますよね。それに、一見不思議でワクワクする世界も一皮剥くと危険で怪しい場所(ノクターン横丁など)だらけ。

      確かに視聴者は画一的で綺麗な価値観を好むので、実際に差別描写なんていれたら、『子供にこんなもの見せるな!』と苦情が入るでしょう。
      その点プリパラは、セクシャルマイノリティや格差問題をさり気なく入れてきてスゴイと思うんですが(意識してるのかは不明)……話がそれましたね。
      ですが、そういった描写はムリとしても、『嫌な奴』ぐらいはやはり出してほしかったですね。
      マルフォイのようにナシマを馬鹿にする排他的なキャラクターが一人いるだけで随分違うんですが。

      対立させずに手をつなぐと言うのは何の困難もない、ただ本当に手をつなぐだけですからね。
      本来、大事なのは『手を繋ごうとする意思』であり、『なぜ手を繋がなければならないのか』をキャラクターや死視聴者に考えさせることが重要だと思います。前作ではるかが、絶望を拒絶するのをやめたように。

      再び世界は繋がりましたが、仮に2つの世界が交流をはじめたら、価値観の違いが浮き彫りになってくるのはこれからでしょう。
      魔法を使える人、使えない人で格差が生まれてしまいますし、うまくいかない部分が出来てくる。
      そうなってはじめて、『2つの世界をつなぐ』という使命が重要になってくるのでっはないでしょうか。

      結局のところ、『魔法つかいプリキュア』という物語は、まだ始まってすらいなかった。私はそう考えます。

      削除
    2. 人魚の話は他種族との対立を匂わせていましたね。
      かつては空を飛び、地上の種族とも交流していた人魚たちが、現在は海に閉じこもっているという。
      おそらく番組の初期には、この辺のテーマをもっと掘り下げる予定だったのではないでしょうか。

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